「カトリーヌ様は相変わらずラグナスに対して意地悪でいらっしゃる」
ルカはクスクスと笑いながら、水筒をカトリーヌに差し出した。
薄暗い森の中では気づきにくいが、カトリーヌの顔色は蒼白だ。
「あら、そんなことないわよ。ラグナスの理想のお姫様像を演じてあげているだけ」
差し出された水筒には、温かい紅茶が入っていた。
カトリーヌはそれを両手で包み込むようにもち、息を何度か吹きかけて一口含んだ。
「町外れまで十分程度かな…。カトリーヌ様、大丈夫ですか?」
「……ええ、大丈夫よ。このくらい、なんともないわ」
強がって答えるが、カトリーヌの顔色は悪く、一目で具合が悪いとわかるほどだ。
彼女自身も強がりだとわかっているのか、自嘲めいた笑みを浮かべて呟く。
「参ったわ…体力の消耗が激しすぎる…」
「お力を使ったのは、お久しぶりですか?」
「そうねぇ…最後は確か、お母様がお亡くなりになったときかしら?
ま、あのときは使ったというより暴走といったほうが正しいかしら」
大きく深呼吸をすると、カトリーヌは胸元を押さえた。
「苦しいのですか?」
心配そうに問いかけるルカに、カトリーヌは苦笑を浮かべながら小さくうなずいた。
「ほんと、嫌になっちゃう」
カトリーヌは木の根元に置かれた鞄から白い包みを取り出すと、紅茶でそれを飲み干した。
「手術はなさらないので?」
「いやぁよ、手術なんて」
ぎゅっと胸元を押さえながら呟くカトリーヌに、ルカはやれやれ、と肩をすくめた。
彼女は、幼いころから心臓に病を抱えている。
それ自体は手術でだいぶよくなるのだが、彼女は決して手術を受けようとはしない。
理由は昔から変わっていないことを、ルカは知っていた。
ただ一人、彼女が家族以外で最愛と認めた彼のためだと。
「手術なんて、絶対にしない」
子供のわがままのようだ。
ルカは素直にそう思う。
けれど彼女はまだまだ子供だ。
過保護な程に彼女を愛した父親は、彼女のことを屋敷から出そうとはしなかった。それどころか、部屋から出ることにすら条件をつけていた。
体力さえつければ、ある程度の発作にも耐えられた。
けれど彼女は、その体力すらないに等しい。
今年で14を数える彼女にとっての世界は、広すぎる部屋とたくさんの書物、そして、与えられ続けたぬいぐるみ。
仕事に忙しい父親と、継母。
彼女の母親が生きていれば、そんな寂しさもなかったのかもしれない。
口には出さなかったが、彼女は寂しがり屋だろう。
だからこそ今、こうして楽しそうな表情を浮かべているのを、ルカは知っている。
「ねえルカ。もしもの話よ」
幹に寄りかかりながら、カトリーヌは空を見上げた。
「なんでしょうか、カトリーヌ様」
「あたしが死んだら、あなたは悲しんでくれるのかしら?」
ずっと昔から、何度となく問いかけられ続けた質問。
悲しむ?
いいや、きっと、彼女がいなくなったら、自分の心にぽっかりと穴が開いてしまうだろう。
彼女がまだ赤ん坊だったころから、ずっとそばに居続けていたのだから。
「悲しいですね…。貴女がいなくなったら、俺は…」
ルカの言葉に、カトリーヌはふわりと微笑んだ。
嘘と虚飾に彩られた世界の中で、彼女はただただ純粋だ。
だからこそ、自分の父親すら信じられないで居ることに心が痛んでしまう。
「ありがとう、ルカ。大好きよ」
そっと頬に触れる指は、ひんやりと冷たい。
カトリーヌの手を引いて、ルカは、自分の上着を彼女にかけた。
それだけで彼女は、ただ嬉しそうに微笑む。
「さあ、カトリーヌ様。火の準備をしましょう。体を温めませんと」
「そうね。だいぶ日も落ちてきたことだし、今夜はここで野宿かしら?」
「できるだけ野宿は避けたいところですが…ラグナスからの定期連絡が…」
ルカの返答を待たないうちに、通信機器からけたたましい音が鳴り響く。
「あら、噂をすればラグナス様からだわ」
クスクスと笑い、カトリーヌは火種を起こす準備を始めた。
そんな彼女を横目で見ながら、ルカは起動スイッチを押す。
『あ、ルカか?悪ィ、遅くなった』
「うん、こちらは全然かまわないよ。で、どう?」
『市内にはいろんな国からの傭兵やら占い師やらが沢山いるな。さすがケイン国王様だ』
ケインという名に、カトリーヌはピクリと肩を震わせた。
「ラグナス」
そんな彼女の些細な変化に、ルカはラグナスを窘めるように呟く。
『あ、悪ィ。カトリーヌ様もいたんだな』
「わたくしは構いませんわよ、ラグナス。お父様、というよりあの女だと思いますけれど…?」
火種の上に紙を次々と乗せていく。
小さな炎に照らされたカトリーヌの表情は、恐ろしいほどに美しい。
その美しさとは対照的に、ルカでさえも言葉を発することができないほど、彼女の表情を無だった。
「それで?ラグナスのほうは準備はよろしいのかしら?」
ぱちぱちと炎が爆ぜる。
紙から小枝、小枝から枯れ木へと炎は移り、すぐに大きな焚き火と変わっていた。
『あ、ああ。ここなら誰かに気配を探られる心配もないはずだ』
「わかりましたわ。ルカ」
す、と細い指が虚空を描く。
炎に照らされた顔は、先ほどの発作のせいかまだ青白い。
まだ万全な状態ではないことがうかがい知れるが、彼女はこうと決めたら一歩も引かないのだ。
やれやれと肩を竦めながら、ルカは媒体となる髪の毛の束をカトリーヌに渡した。
「わたくし、カトリーヌが命じます。ラグナス・ファウストをわたくしの元に導きなさい」